高田宗知
ロシアの朝は暗い。8時ごろにアパートを出ると街灯が道を明るく照らしている。マイナス10度を下回る寒さの中でバスを待つことにも慣れてきた。息を深く吸い込むと胸の中に冷気が広がり、吐く息は煙突から出る煙のように長く白くたなびく。空はいつも曇り、ちらちらと雪が舞い降りる。外にいる時間は15分くらいだが、帽子と手袋がないと凍えてしまう。雪が積もり始めてからあわててロシアで購入したブーツがありがたい。トローリーバスの中は着ぶくれた通勤客でいっぱいになり、女車掌が合間をかきわけながら料金の徴収をこなしていく。車内も、車内から見える街並みの看板もロシア語ばかりでまったく読めない。混んだ車内で隣の客から「????」とロシア語で話しかけられる。おそらく「次に降りますか?降りないなら私を出口まで通して」と言われているので適当に返事をして少し隙間をあける。あまりの寒さにバスの窓はすべて凍りついてしまい、外の様子が皆目わからない。何度停留所を過ぎたか数えて、目的地で無事降りる。滑りやすい足元にも注意が必要だ。一人きりのロシアで怪我をするわけにはいかない。
ロシアに着いて3週間。これまで順調な滑り出しだ。ロシア語は「読めない」「書けない」「話せない」の三重苦だが、ロシア人の優しさに助けられながら暮らしている。アパートの契約も、携帯電話の購入も、インターネット接続もすべてうまくいった。
整形外科医がサンクトペテルスブルグに1年間留学することはあまりない。整形外科医の仕事は幅広く、首から上と、胸とおなかの中以外はほぼすべて守備範囲である。骨と筋肉、腱、神経、血管を扱い、一般的には捻挫や骨折、腰痛の治療を行う。そして、骨接合術、人工関節置換術、関節鏡手術、ヘルニア摘出術、腱縫合術、などいろいろな手術を行う。私の専門は少し珍しく、「創外固定と骨延長」という分野である。体の外側に金属のリングでフレームを組み、針金やスクリューで骨と接続して、体の外から骨の形を変えることでさまざまな治療をするのが「創外固定法」だ。たとえば折れた骨がうまくつながらなくなった場合、悪い部分を取り除き、このフレームで外側からしっかりと固定してやるとうまく骨が癒合(ゆごう)する。また、フレームを組んだ上で、わざと一部の骨に切れ目を入れ、外側のフレームを徐々に動かすことで骨の隙間を広げるようにすると、そこに新しい骨ができてくる。この方法を「骨延長」と呼ぶ。骨のみならず筋肉や血管、神経も同時に延長することが可能だ。生まれながらに手足が短い病気や、子供のころの怪我が原因で足がうまく伸びずに変形してしまった場合などにとても有効な治療となる。この方法を確立したのがあるロシア人医師であり、現在もロシアで創外固定が盛んに用いられているゆえんである。彼の娘がその生涯を簡単に記述している。(「LIMB LENGTHENING AND RECONSTRUCTION SURGERY」より)
Gavriil Abramovich Ilizarov(G.A.イリザロフ)。1921年生まれ。苦学して18歳で医学校を出た彼はシベリアのKurgan(クルガン)の地で医療を開始した。クルガンは帝政ロシア時代には流刑地だった。そこでは彼の他に医師はおらず、必要に駆られて彼はあらゆる病気を治療した。「さまざまな視点で、実用的な解決法にたどり着き、その結論にしたがって行動した」と記述にある。ぼろぼろの複葉機を操縦して各地を回った。第二次大戦後の負傷者を治療することも多く、徐々に整形外科の分野に強い興味を持つようになる。
骨折後にうまく骨がつかない状態を「偽関節」と呼ぶが、その頃には有効な治療法がなかった。しかし彼は創外固定が難治性の偽関節にとても有効であることを発見する。ほうきの柄を使って固定力を確認し、自ら開発した「イリザロフ創外固定器」の発明を申請し、1952年に著作権を得る。治療の成果は想像以上であり、治療期間は劇的に短縮した。しかし、良好すぎる結果が災いし、学会で発表しても信じてもらえないことが多かった。モスクワの著明な医師たちはこの「田舎医師」をあざけった。その中で彼は少しずつ実績を重ねる。
もっとも大きな成果は「骨延長術」の確立である。偽関節の治療では通常、創外固定を装着し、フレームを操作して骨同士に圧迫力をかけることで骨の癒合を得る。しかし、幸運な偶然が生じた。創外固定のナットを逆方向に回すことで骨の隙間が広がるように牽引力がかかってしまったのである。レントゲンで隙間に淡く白い濃度の部分が認められた際、イリザロフはそれが骨形成だということに気がついた。これが現在広く行われるようになった「骨延長術」の始まりである。イリザロフは動物実験と臨床で経験を重ね、これを実用化した。
私はサンクトペテルブルグのLeonid N. Solomin教授の元で1年間の臨床研究を行う予定だ。彼は「The Basic Principles of External Fixation using the Ilizarov Device」という教科書を執筆し、さらに新しい創外固定器の開発を進めているロシアでも有数の医師である。遠くアジアの地から来た私を歓迎してくれてとても感謝している。偉大なロシアの先人と、その精神を心に留めつつ、これから頑張ろうと思う。
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