-滞在記- 若手研究者等フェローシップ( 2004 年度)

後藤 正憲

私は現在、チュヴァシ国立大学歴史学部に研修員として籍を置き、この地方の宗教的信仰に関する歴史的・民族学的資料を集めている。現在までのところチェボクサルィ市に拠点を置きながら、文献的資料を中心に収集と分析を進めてきた。同時に近郊の村に足を伸ばし、これから雪解けを待って実地における本格的な調査に入るための準備を整えている。ここでは、これまで現地滞在中に体験したことのなかから、いくつか簡単にお知らせしたいと思う。

「彼らがここに来たときは、それはほんとにやせっぽちだったけど、帰るときにはすっかり逞しくなって帰って行ったわよ」―― 以前この街に滞在した日本人の技術者のことを、特に年配の人はよく覚えていて、私が日本から来たことを話すと、懐かしそうに当時のことを語ってくれる。現在私が暮らすチェボクサルィ市は、モスクワから東へおよそ600キロメートル(汽車で約半日の行程)に位置する、ヴォルガ河畔の美しい街である。1970年代末にトラクター工場を中心とするコンビナートが建設され、技術提供を目的として日本を含む多くの国から技術者が招かれた当時、街は地方における工業基地として沸き立っていたらしい。しかし、ソ連邦の崩壊とともに原料や製品の流通が滞り、街では斜陽化が進んだ。現在ではエネルギッシュな指導陣の下で経済復興が盛んだが、日本のような遠方から訪れるものはほとんどいないようだ。そのためか、こちらに来てから幾度となく思わぬ歓待を受けることがあった。

まだここへ来てほとんど間もないころ、世界的に有名な絵画の複製品を展示して、市民啓発のために無料で開放しているギャラリーで、「日本文化展」を開くからぜひ来てほしいと招待をうけた。状況がよくわからずあまり乗り気ではなかったのだが、半ば無理やりに連れられていくと、街の中心から少し外れていてあまり便利とはいえない立地にもかかわらず、ギャラリーには大勢の人が展示を見学に来ていた。会場に足を踏み入れるや、そこにいた人たちの視線が一斉に私のほうに集まった。記者を名乗る若い人たちから相次いでインタビューを受けた後、主催者から会場に紹介され簡単に自己紹介した。それから若い女性の職員が手際よく展示物の説明を行い、地元人による自作の「ホック」の披露もあった(一般的にロシアでは日本の俳句がその原型である連歌の「発句」の名で流通している)。私にはその意味を汲み取ることができず、しばらくきょとんとしていると、会場全体が私の反応をうかがっていることがひしひしと感じられたので、やむを得ず「ホウ」とさも感心したような表情を作って見せた。数日後、お前のことが新聞にでていると言われて、半信半疑売店で買い求めてみると、ページの中ほどに「地元人のホックに日本人も驚く」と見出しのついた小さな記事を見つけた。このような洗礼を受けた後にも、これとよく似た体験は幾度となく繰り返された。その度に思い知らされたのが、私がここへ来て彼らの生活を見るということに先立って、彼らが私のことを見ているまなざしの強さである。

大学の医学部には、他にもアジア・アフリカの国々から来た多くの留学生が学んでいるというのに、日本人がとりわけ関心を持って迎えられるのは、日本が経済的に発展した国だからだろうか。冒頭で記したように、なかでも年配の人にとって日本人の存在は、かつての街の繁栄ぶりを懐かしく思い起こさせるのかもしれない。しかし、街の繁栄を築いた70年代末からペレストロイカにいたるまでの時期は、都市化が進むと同時に固有の文化が失われる時期でもあった。チュルク語系のチュヴァシ語を民族の言語とし、キプチャク汗国に征服されるまでヴォルガ川中流域に勢力を誇っていたブルガル民族の末裔といわれるチュヴァシ人は、長い歳月をかけて培われた固有の文化を継承してきた。だがこの時期、都会に流入する多様な情報と人材を統括する手段としてロシア語の機能性が重視され、逆にチュヴァシ語の地位は低下した。時代の波を大きくかぶったのは子供たちで、この時期に都会で学校教育を受けた子供のなかには、チュヴァシ語の話せない者が多い。統計によると、チェボクサルィ市人口の約3分の1がロシア人(残り3分の2の大半はチュヴァシ人で、ごくわずかタタール人など他の諸民族を含む)となっているので、こちらに来た当初私は、チュヴァシ語を話せる者がチュヴァシ人で話せない者はロシア人だろうと単純に考えていた。しかし、決してそうではないことがすぐに明らかになった。例えば、受け入れ責任者としてお世話になっている研究者の家庭では、上の二人の娘さんは地方で育ったためにチュヴァシ語が堪能だが、一番下の息子さんはチェボクサルィで生まれ育ったために、学校に上がる時期になってもチュヴァシ語ができない。彼とコミュニケーションをとるためには家族全員がロシア語で話すため、本人が意識して学ばない限り、民族の言葉を身につけることができないのだ。この研究者の家庭のように、親はチュヴァシ語ができても子供はできないという家庭が、都会の中ではかなり多いようである。こうした事態を重く見て、政府も地方と都会の差異を埋めるべく、地方の学生を都会に招いたり、また逆に大学の分校を地方に建て教育者を派遣したりして、対策を立てている。しかし、高等教育がすべてロシア語で行われることに変わりはないし、大学で講義を受け持つ若い研究者の多くがチュヴァシ語を話すことのできない都会育ちの若者で占められているのも事実なようだ。90年代以降、ロシア語とチュヴァシ語の二言語制による言語規則が制定されるなど、民族言語の見直しが高まってはいるが、それでも学校ではチュヴァシ語より英語教育のほうに力が入れられていると、言語教育関係者はぼやく。

日本に対する人々の視線の熱さには、なかには懐古的な思いが込められているのかもしれないが、若い人にとってはそうではないだろう。チェボクサルィ市の「日本文化展」で、イベントが終わってから個人的に私のほうに詰め寄ってきた人々の中には、「セーラームーン」に心酔してその格好を真似て会場に来ている若い女の子がいて、日本人のアニメに対する接し方に非常に関心を寄せている人もいた。私はまったく意表を突かれたが、やがて複雑な思いになった。

「日本文化展」にて/チェボクサルィ市内

マースレニツァのお祭りに/モルガウシュ地方

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